ヨハネによる福音書19 章12-19,28-30 節
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:30)
イエスをどうしても死刑にしたいユダヤ教指導者たちは、イエスに死刑判決を下さざるを得なくなるようにと、総督ピラトに対し訴追(そつい)理由の言葉を巧みに変化させていきます。ピラトの官邸に連行していった際の訴状には「この者は、自分を王だと自称している」とありました。「あなたは王なのか?」。ピラトのイエスへの尋問は、それゆえそこから始まります。ピラトにしてみれば、この男が「ユダヤ人の王」と騙(かた)ったことよりも、執拗(しつよう)なユダヤ教指導者たちに厄介(やっかい)さを感じていましたから、ローマ兵卒に命じて「ユダヤ人の王、万歳」と連呼して鞭(むち)を打ち、その上でイエスを釈放しようとしました。しかし、ユダヤ教指導者たちはあくまでも十字架刑を要求し、しかも「この男は、自分を神の子と自称したのだ」と言うのです。とたんにピラトに戦慄(せんりつ)が走ります。危機的局面が進んでしまいました。「神の子」と自称していたとなれば、ユダヤの問題ではなく、自らを「神の子」と呼ばせていたローマ皇帝への冒涜(ぼうとく)につながることだからです。困惑を隠せないピラトに、さらに究極のダメ押しが突き刺さってきます。「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。皇帝に背(そむ)いています。」と。さらに続いて、とどめのようなひと言が襲いかかります。「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」。
これでピラトは「詰(つ)んだ」のです。逃げ場を失ったのです。皇帝への恐怖。皇帝への恐怖の利用。それがイエスの十字架刑を決定づけたことを、「ヨハネ福音書」だけがピラトの心情をたどるかたちで記しています。それはこの福音書のもとに集まっていた2 世紀初頭のクリスチャンたち(ヨハネ共同体)が、ローマ帝国が支配する世界をどのように見つめ、そこをどう生き抜こうとしていたかということと深い関連を持っています。
「ヨハネ福音書」は、イエスが絶命寸前に「成し遂げられた」と語ったことを記します。まるでネガフィルムのように、「ローマの暴力」のもとで力無く潰(つぶ)されていく命が、実は神の御心が存分に注がれていた栄光の徴(しるし)なのだと宣言したのです。「権力・暴力への恐怖」によって動いていく「この世」にあって、何を土台とし、何に照らされ、何に繋がり、何を待望しながら生きていくのか。イエスの十字架の受難を「勝利の徴」として生きたヨハネ共同体の生きざまを想像したいものです。それを横に置いてこの福音書の持つ「神の子・勝利・栄光」のトーンばかりを抜き取って強調すると、後世に形づくられた「キリスト教教理」を補強するばかりの「ヨハネ福音書」になってしまいます。吉髙叶