マルコによる福音書15 章33-39 節
昼の12 時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(マルコ15:33-34)
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。これが、主イエスの唯一の言葉でした。ピラトの前でも、弁明一つせず口を閉ざしました。兵士たちに鞭打たれ、群衆の嘲(あざけ)りの中を引かれ、十字架にはりつけられ息絶えるまでの間にも、イエスは何一つ語りませんでした。逃げていった弟子たちへの失意の言葉も、罵(ののし)る人々への対抗の言葉も、運命を呪う言葉も、何一つ、イエスは口にしませんでした。ただ、息を引き取るその時に、「わが神、わが神」と神を呼び、「なぜ、なにゆえに」と神を求めたのです。
ゲッセマネの園で、イエスは神の御心と格闘しました。激闘の末、神の沈黙の中に、イエスは「答え」を見ました。それを受け取り、それを飲み込み、捕らえに来た人々の中に進んで行かれました。その「神との祈りの交わり」は、実に絶命するまで続けられていたのです。神の沈黙の中に、自らも黙して沈み込み、「なぜ、なにゆえに」と神のなされようとしていることの意味を求めて、神とのみ向き合い続けました。弟子たちに去られ、人々に捨てられているこのわたしです。あなたの沈黙しか聴かせてもらえないこのわたしです。いま、苦しみと痛みに包まれ、これ以上息ができなくなっているこのわたしです。あなたにさえ見捨てられているかのようなこのわたしです。「それは、あなたの、なにゆえに」なのですか。神に向き、神を呼び、神に問い、神を求めた、それがイエスの最期の「全て」でした。まさに「神の子」でした。「神の子」としての死でした。
「わが神、なにゆえに」。これが苦しみの中に宿る祈りの核(かく)です。不条理な苛(さいな)みの中にあって、絶望的な状況にあって、極限的な苦しみの中で、それでも神と向かい合う時に、これ以外の言葉は、もう無いのです。これに何一つ付け足すことはできないのです。しかし、この二つの語だけは、最後まで「祈り」なのです。これこそが、祈りなのです。
「わが神、なにゆえに」。この声が聞えることがありません。多くの災害被災地から、不慮の死を遂げた者の遺族から、未だに暴力に晒(さら)され続けるミャンマーから、そしてウクライナの町々から聞こえます。イエスが神と向き合った場所に、人間は立たされてしまうことがあるのです。いえ、人間にとってもっとも恐ろしいその場所に、イエスがいるのです。そこで、あたかも神に見捨てられたような姿で神とつながりながら、「わが神、わが神、なにゆえに」と「なにゆえかを知る神」を求め続けておられるのです。【吉髙叶】