ローマの信徒への手紙3 章21-31 節
神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。(聖書協会共同訳ローマ3:20)
伝道者パウロの最大の功績は、キリスト信仰がユダヤ人のみのものではなく、民族的なルーツやあらゆる属性の違いを超えて、すべての人に開かれているものであることを主張したことです。しかも命がけで、その宣教を貫いたことです。「命がけ」というのは、パウロの生涯が、事実ユダヤ人たちから命を狙われ続けたものだったからです。ユダヤ教指導者たちは、自分たち民族のアイデンティティー、しかも「救い(神に義とされること)」に直結している「律法や割礼」という民族的優位性を、軽視したり否定したりするパウロを抹殺したくなるほど憎んだのでした。歴史を通して弱小民族として辛酸を舐め、常に大国からの被支配にさらされてきたユダヤ人(イスラエル)が、自己の存在の特別性を確認し、すがってきたものが律法と割礼でしたから、パウロをゆるすことができなかったのです。こうした激烈で頑なな体制や思考と対決し、迫害を受けながらも信じ抜かれていったのが「すべての人間は、ただイエス・キリストの信仰によって神に義とされる」という「信仰義認」の理解でした。そして、キリスト信仰が、あらゆる人々に伝わり浸透していく根源的な理由や要因がそこにあったのです。ですから、キリスト教とは「神の前では誰一人として優劣なく尊ばれる存在である」ことを「思考性のルーツ」とし、いまなお、それを「宣教の核心」とする存在でなければならないと思います。
4 月28 日。入管法(出入国管理及び難民認定法)の改悪案が衆議院で強行採決され、可決されてしまいました。母国にいられずに出国し、また母国に帰国できない理由があるから日本に在留し難民申請に及んでいる外国籍住民を強制送還させることのできる恐ろしい改悪案が成立しかかっています。こうした「日本の外国人政策」の根幹にある問題は、その思考性にあります。「日本のための外国人。日本人のための外国人。日本社会のための外国人」という風に、外国人の在留の価値を「日本にとっての価値基準」から測ろうとする発想に貫かれているという利己中心性の問題です。キリスト教は、この思考性と闘います。この感覚と闘います。新約聖書の諸文書を読みながら人間の生き方を考える、というキリスト教的な思考作業(人生論的な作業)は、「この闘い」を生み出すものでなければ意味を見失います。したがって、今般の入管法改悪案は、キリスト教信仰の根幹と核心を揺さぶっている問題なのだと言えますし、これに対して沈黙するならば、日本のキリスト教会は、自らの命と多くの友を失うだろうと、わたしは思います。(吉髙叶)