ルカによる福音書2 章41-52 節
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:47,52)
新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
元旦が日曜日となり、礼拝をもって一年を始めることのできる恵みを感謝しています。あいにく「コロナ感染拡大への予防対策」のため対面礼拝を取りやめ、一斉リモート礼拝となりました。2023 年になっても、私たちにはまだまだコロナ感染と向き合いながらの歩みが続いていくのだということを改めて認識させられています。こうした悔しくもどかしい経験の中に、しかし、将来私たちが担うべき福音宣教の「萌芽」があることを覚えていきたいと思います。
本日は、ルカが記す「少年イエス」の様子に、後々の「イエスの宣教」の「萌芽」を見つめていきたいと思います。イエスによる宣教(「神の国」の接近)は、ユダヤ教の律法理解に根ざしていながらも、偏狭なユダヤ主義や窮屈な律法主義を超越し、神と人との交わりの本質を示しました。「汚れた罪人」たちとの接触を嫌い、また感染症者を隔離することで、「社会的・宗教的・衛生的」な清潔を保持しようとしてきた当時のユダヤ社会の中で、イエスは自らそれらの人々に触れあい、共に食事をすることを通して切り込んでいきました。イエスはそのようにして「神の国」のイメージを体現したのです。さらに、「イエスの宣教」は、民族や国の境界を越え、また縛りつけられている「身分」や「属性」を超えて人間を解放し、新しい基準で結び合わせていく視野と視点を持っていました。そのような視座、視点、視線をイエスはどこで身につけたのでしょうか。
ルカは、12 歳の少年イエスの姿に、すでにその「萌芽」が見られることを示しています。神殿の境内で律法を論じ合うことを日課としていた学者たちは、自分たちに物怖じせずに向かい合い、鋭い質問を放ち、また驚くべき受け答えをする少年に驚愕したようです。でもそれは、この少年の知識の豊富さに驚いたというより、それまで律法を論じてきた自分たちの観点とはまるで違うところから人間や物事を見、律法や預言書を解釈しようとしていく、その着眼点の新しさに驚いたのだと思います。
コロナ状況を生きる。それは単に我慢や自粛で耐え忍んでいる時代なのではなく、「将来の宣教」のための萌芽の時だと理解すべきかもしれません。ですから、私たちは、今という時を、よく感じ、よく悩み、よく求め、よく祈って歩みたいのです。将来、振り返った時、「あの時の、あれが『兆し』だった」と思えることに、満ちているのです。(吉髙叶)