ルカによる福音書6 章1-11 節
「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(ルカ6:9)
ルカ6 章1-11 節は「安息日」をめぐる二つの連続するエピソードです。安息日(あんそくび)の過ごし方に強いこだわりを持つファリサイ派の人々がイエスを攻撃してくる場面ですが、まずは、ファリサイ派の人々のこだわりの理由(わけ)を押さえておきましょう。
ユダヤ教ファリサイ派の人々は、律法遵守(じゅんしゅ)のために日夜(にちや)心血を注いできた人々でした。「律法は、実際の生活上でどのように解釈され、当てはめられるべきか」「前例はどうなつているか」「『例外』をどう認定するか」。先人たち・賢人(けんじん)たちが検討し蓄積してきた“言い伝え集(ミシュナ)”を網羅(もうら)して、それをもとに主(おも)に町々の会堂(シナゴーグ)を拠点に民衆の生活指導に当たっていました。中でも、「安息日」の過ごし方については多くの禁止細則があり、それに基づいて人々の過ごし方に(まるで番人のように)目を光らせていました。ですから、民衆にとってみば、「安息日ほど安息できない日はない」くらいの息苦しさを強いられていたのでした。
安息日の根拠は、出エジプト記によれば、神の創造の業の祝いであり(出エジ20:8~11)、申命記によれば、奴隷の地エジプトからの贖い(あがない)出しの祝いです(申命5:12~15)。創造に与り(あずかり)、贖いに浴(よく)したイスラエルへの特別な祝福に感謝し、神を賛美する日です。しかも、それはただただ神の恩寵(おんちょう)・恩恵によることを憶(おぼ)える時です。安息日こそ、命を受けたことを感謝し、解放(自由)の喜びを吸い込む日なのです
でもどうでしよう。安息日に「していいこと・いけないこと」を、神経をすり減らすように気にし、誰とどこまで関わることがセーフで、どこからはアウト? と定規(じょうぎ)をあてるように過ごさねばならないとしたら、そこには平安も喜びも湧きませんし、「安らかな息」をつくことができなくなってしまいます。そして何より、「神の恩恵」による平安ではなく、「人間の努力」による安心確認の日になってしまいます。それは本末転倒なことであり、人間が安息日に手足を縛られ、安息日に支配されていくようになってしまいます。安息日は、解放の印でこそあれ、支配の印(しるし)ではないはずです。
イエスは宣言します。「人の子は安息日の主である」。この言葉は「人間が安らかな息をついて生きることができるようにと、神がしてくださったことを憶えよ」との呼びかけです。と同時に、イエスご自身がその「解放の福音」のために歩みだし、「この解放のために自分は生き抜いていくのだ」という宣言でもあります。(吉髙叶)