2024年11月10日礼拝「帰っておいで、子どもたち」

エレミヤ書31 章27-34 節

彼(こどもたち)のために私のはらわたはもだえ、彼(こどもたち)を憐れまずにはいられない。(協会共同訳エレミヤ31:20、ルビ吉髙)

イスラエルの無差別攻撃によるパレスチナのガザの死者は4 万人を超え、1 万7 千人もの無垢な子どもたちが殺されています。電気も水も食料も止められ、極度な飢餓状態の中、瀕死の子どもたちが何千人もいます。親もきょうだいも殺され、家も壊され、一人きりになって瓦礫の中に放り出された子どもたちもたくさんいます。
この大量虐殺・非人道的状態のひどさをどんなに訴えても、ガザ攻撃を支持するイスラエル人から返ってくる言葉は、「10 月7 日(ハマスによる攻撃の日)を見ろ。テロを根絶するまでは決して戦いを止めない。この土地のすべては神がイスラエルに与えられた約束なのだ。この神とこの約束は永遠だ!」という激しい拒絶です。「神は絶対だ! 聖書は絶対だ!テロリストに死を!」と叫びながらエルサレムを練り歩く群衆。「何の罪もない子どもたちが、こんなにも死んでいることに、何も思わないのですか?」と問いかければ、「その中にはテロリストもいるのです。」「われわれの神は絶対です。敵は必ず消し去らなければなりません、たとえ赤ん坊であったとしても」と言うのです。こう言い返したのは、イスラエルの小学校の教師です。「10 月7 日!」と叫べば何でも正当化できる。「神の約束」と口にすれば「虐殺行為」は「敬虔な信仰」に置き換わり、「子どもたちの命のために停戦を」と呼びかければ「敵の暴力をゆるすつもりか」「おまえはテロリストだ」と攻撃され、扇動者として拘束されてしまう。そのような「狂気」としか呼べない「信仰」が、この歴史と、子どもたちのからだと魂とに、癒やされがたい傷を彫り込んでいます。
こうした現実の中で「聖書」(特に旧約聖書)を読む。それはぞっとするほどに恐ろしいことです。「神」「約束」「絶対」「永遠」「敵」「滅ぼす」「救い出す」。その概念・その用語一つひとつが、立ち方ひとつ、立ち位置ひとつで、暴力支配を正当化し、殺戮者を英雄にしてしまうことを肝に銘じて、「聖書」と向き合わねばなりません。
エレミヤ31 章は、イスラエル自らの過ちの結果、大国の手によって諸国に散らされてしまったイスラエル(ヤコブの子どもたち)を、「神が内蔵(はらわた)がもだえるような嘆きと憐れみをもって、再び『この地』に呼び集めようとしておられる」との預言です。しかし、いま、神が「この土地(パレスチナ)に帰っておいで」と呼びかけているのは、こんなイスラエル人たちにではない。むしろ、散らされていったパレスチナ人たち。家族や家を失い、未来を失いかけているパレスチナの子どもたちになのだ、と、私は思います。吉髙叶

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