マタイによる福音書6 章5-15 節
だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。」(マタイ6:9)
「主の祈り」は6 つの祈りです。そして、「人間としての祈り」がすべて込められています。「神の御名(神の思い)がみんなの喜びとなりますように。神の国がきますように。神の心をを映すわたし、神の心を受け取る世界となりますように。神の養い、赦し、守りが自分を包んでいてくれることを忘れることがありませんように。」
わたしたちは、主イエスから、このように何を祈るべきかの「すべて」を教えていただいています。それは、わたしたちの命の範囲、神の前で生きる者の生き方を創られるための祈り、「いのちの祈り」ともいえる祈りだと思います。と同時に、わたしたちの祈り(願い事)がどうなっているのかを照らす祈りだとも言えます。
「神の御名などではなく、わたしの名・わたしの思いがすべてを支配しますように」と祈ることはゆるされません。「神の御心に反した世界でありますように」と祈ることはゆるされません。「わたしに必要なものなら、明日の分も、他人の分も、わたしに回してください」と祈ることはできません。そして「いつまでも生きられるようにしてください」と祈ることはできません。「わたしの罪を赦してください。でもわたしの憎いあの人の罪は決して赦さず、こらしめてください」と祈ることはできません。「わたしが、たとえ神から離れて悪人になったとしても、富み栄えることができるようにしてください」と祈ることはできません。「主の祈り」の「逆」を祈るなら、「主の祈り」の範囲を超えて祈るなら、そこには欲望と憎しみと傲慢が生まれ、暗闇が広がっていきます。もしこの世界が、欲望と憎しみと傲慢に満ちているならば、わたしたち人間が、「主の祈り」をあざ笑い、人間の祈り(欲望)に生きてしまっていることを示しています。それは、まさしく、荒野でイエス誘惑した悪魔(試みる者)の声です。しかし、残念ながら、この世界は、実に「主の祈り」の逆の祈りにさらされていると言わねばなりません。
トランプ大統領の就任後の荒っぽい姿、傲慢なふるまいを目にしながら、「主の祈り」とは真逆の風が吹き荒れる時代の到来に暗澹たる気持ちになります。でも、主イエスは、だからこそわたしたちに「主の祈り」を教えてくださったのだと感じます。この祈りで生きていく道がある。この祈りを生きる人になろう。人間はそれ以上にも、それ以下にもなる必要はないから、と言ってくださっていると思います。吉髙叶