マタイ福音書23 章1-12 節
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。(マタイ23:4)
イエスはエルサレムに入城したとたんに、神殿の境内(けいだい)で両替人や生贄(いけにえ)販売人たちを追い出してしまう荒業(あらわざ)に出ます。そして、これに続くイエスの言動は、徹底的にユダヤ宗教体制への批判です。「いちじくの木を呪う」語りは、エルサレムの繁栄の虚構(きょこう)性を嘆(なげ)いています。三つのたとえ話(「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ」「婚宴(こんえん)のたとえ」)では、「天の国」を独占支配しようとしていたり、それが自分たちのものだと自負している宗教指導者たちの欺瞞(ぎまん)性や倒錯(とうさく)性を暴(あば)いています。五つの問答(「権威について」「皇帝への税金について」「復活について」「最重要な掟(おきて)について」「ダビデの子について」)によって、サドカイ人、ファリサイ人、律法学者たちの神理解や律法理解の歪(ゆが)みや矛盾(むじゅん)を喝破(かつぱ)していきます。もう徹底的な対決姿勢です。
そして、弟子たちや人々に向き直って、改めて律法学者やファリサイ人たちの批判を語っているのが23 章です。この章では、実に八つの観点(切り口)から彼らの姿勢の問題性を突いていきます。すなわち、彼ら宗教指導者たちが、殊更(ことさら)に律法遵守(じゅんしゅ)を振り回すことの狙(ねら)いは「自分を高めること」「自分の価値を上げること」にあるのであり、その結果、人々は負いきれない重荷を負わされ、彼らに支配されていくことになります。
手前の22 章34 節以下で、「律法の中心には『愛』があるべきだ」とイエスは言い抜きます。それは「律法規範の徹底による報償(ほうしょう)」だと天の国を捉えてきた彼らの律法理解の中核を撃(う)つひと言でした。そう言えば、『マタイ福音書』を最初から読み返してみても、イエスの「語り」には行動規範(きはん)的なものはありません。「山上の説教」の中に「反対命題」として出てきますが、それは、「これまで『こうしなさい』」と言われてきた捉え方を覆(くつがえ)すレトリックであって、イエスが群衆に伝えたかったことは、神の無償(むしょう)の愛、神の養いの業への信頼のことです。人間の行動の善し悪しが天の国につながるなどと、これっぽっちも語ってはおらず、むしろたとえあなたがどうであろうと神はあなたを愛し、神の国をくださろうとしている。その神の愛に信頼して、あなたたちも愛し合いなさい、と呼びかけたのです。さて、それなのに何故(なぜ)、歴史におけるキリスト教会の実際は、こんなにも行動規範的な伝統を帯びてしまったのでしょう。慰めと解放の福音ではなく、福音の律法化と裁きの苦しみを身に纏うようになってしまったのでしょう。吉髙叶