サムエル記上16 章1-13 節
わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。(サム16:7)
『サムエル記』上16 章を皮切りに、下巻の最後まで「ダビデ物語」が続きます。聖書の中で、一人の人物にここまでの記述をするのは、モーセと彼ぐらいでしょう。確かにイスラエル史にとってダビデ王の存在は特別なものであり、後々の時代にユダヤ人が待望したメシア像のモデルでもありました。私たちは、9 月末まで『サムエル記』を辿っていきますので、つまりは「ダビデ物語」をしばらく読んでいくことになります。ですから、その際の「視座」を据えておきたいと思います。その一つは、バビロニア捕囚期に『サムエル記』を含む歴史書群を編纂した人々の視座、すなわち「イスラエルはなぜ滅んでしまったのか」「そもそもイスラエルとは何だったのか」という歴史的問いです。
もう一つ、その「視座」を考える際にはずしてはならないのが、イエスの存在です。イエスが登場した時代は、ユダヤがローマの植民地となり、その支配への怨念と反発が燃えさかっていた時代です。民衆はローマの支配を転覆させる英雄を求めており、ダビデ的メシアの登場を待ち望んでいました。ですから、しばしばイエスも「ダビデの子」と呼ばれ、熱狂的に迎えられることもありました。しかし、福音書が描くのは、イエスご自身が民衆の期待するダビデ的英雄像には決して応えず、権力に対して武力や奇跡の力によって立ち向かうことはなさらなかったという事実です。むしろ敵対するものを愛し、迫害するもののために祈り、剣を鞘におさめよ、と言うのです。また、律法に従えない人々(罪人たち)と食事を共にし、異邦人とも触れあって祝福します。それは、ユダヤ的・ダビデ王国的な世界観・価値観を全く相対化する姿です。そして、こともあろうに、ローマの死刑である磔刑(たつけい:十字架刑)で殺されていくのです。そうです、イエスは、「ダビデ的メシア像」を否定・修正する生き方をなさったのでした。そのイエスの「生き様」を『サムエル記』等を読んでいく「視座」に組み入れなければなりません。
こんにち世界を混迷へと陥れているのが「ダビデ王国の再建」という「シオニズムの思想」です。ダビデ王国時代に拡大した領土こそが、イスラエルの「約束の地」だと強弁し、軍事力で奪取しようと目論んでいます。そのような時代に「ダビデ物語」を読むのですから、私たちは「ダビデ万歳史観」からきちんと脱皮し、ユダヤ教・キリスト教の「ダビデ愛」を相対化しながら読み進めていかねばならないと思います。吉髙叶