サムエル記下18:28-19:9
王が「若者アブサロムは無事か」と尋ねると、アヒマアツは答えた。「・・・何も知りません。」(サム下18:29)
「走って行って、主が王を敵の手から救ってくださったという良い知らせを王に伝えます。」アヒマアツは、そう言って走り出そうとします。しかし、司令官ヨアブはそれを止めます、「今日は知らせないでおこう。王の息子が死んだのだ。」ここに、この物語の悲しいねじれがあります。戦争には勝利しましたが、王ダビデの息子は死んだのですから。ダビデが待っている知らせは、戦いに勝ったかどうかではなく「息子アブサロムは無事か。」それが、彼のただ一つの問いでした。アヒマアツは、ダビデのその問いの前に立ったとき、やはり言葉が出ず、「わたしは知りません」と答えるしかありませんでした。でも、そんなはずはありません。アブサロムが死んだことを知っていました。しかし、それをダビデに伝えることができずに葛藤を覚えていたのです。そこに、真実を伝えることの重さと、目の前にいる一人の人間の痛みを思いやる心との間で、立ち尽くしてしまう人間の苦しく優しい心情を見ます。
やがて19 章に入ると、ダビデは「わが子アブサロムよ」と悲嘆に暮れて泣き続けます。それを見たヨアブは、ダビデに対して「王としての責任」を果たすよう迫ります。「兵士たちは命を懸けて戦ったのだから、あなたは彼らの前に立ち、勝利を喜び、彼らを労わなければならないのです」と。しかし、そこにいるダビデは、王である以前に、一人の息子を失った父親でした。「戦勝」は、ほんとうに「良き知らせ」なのでしょうか。
今日も世界の各地で戦争が続き、「勝利」という言葉が語られています。けれども、たとえ戦争に「勝った」としても、失われた命が戻ってくることはありません。瓦礫の下に埋まった家族への悲しみも、子どもを失った親の涙も、「勝利」という一言によって消えることはありません。戦争における「勝利」とは、いったい誰にとっての、何に対する勝利なのでしょうか。そして「勝利」という大きな言葉によって、その一人ひとりの悲しみが見えなくなってしまうことがあります。私たちは、どんな知らせを「良い知らせ」と呼ぶのでしょうか。そして、その知らせを受け取る人の痛みを、私たちは想像しているでしょうか。「戦勝」という言葉の陰に隠れてしまう人の涙があることを、聖書は見つめています。その涙の前に立って、「戦勝」は、ほんとうに「良い知らせ」と呼べるものなのか。この物語は、今日の私たちの世界に、静かに問いかけています。吉髙叶