2023年11月5日礼拝「嗚呼、パレスチナよ」

イザヤ書42 章1-9 節

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。(イザ42:6)

パレスチナはイエスの生まれた地。パレスチナはイエスが「罪人」呼ばわりされた人々と親しみ、貧者を慰め、病人を癒やして歩んだ地。パレスチナはイエスが神の心を生き抜いた故に十字架で殺された地。パレスチナは神がイエスを墓の中から立ち上がらせ、人々に希望を呼び起こした地。パレスチナに生まれ、パレスチナで生き、パレスチナで灯されたイエスの生命の炎は、やがてパレスチナという地域を越え、世界の人々の心に火を灯していった。欲望や暴力によって分裂させられていく人間の狭間や裂け目に、その火は灯り、暗闇に呑み込まれそうな人々の足下で希望の光となっていった。キリスト・イエスは、パレスチナに宿り、パレスチナから世界を照らし始めたのだ。
しかしふたたび、その炎が初めに灯されたパレスチナは暗黒に閉ざされている。流血に呑み込まれている。人間の裂け目から憎しみの火は噴き出し、砲弾と銃弾が人間を吹き飛ばし、残骸と死体が地面を覆っている。これから何十年も癒えることの無い憎しみと悲しみを歴史に塗り込めながら、パレスチナが血まみれになってのたうち回っている。目をそらしてはならない。このパレスチナを見つめ、「パレスチナ」の背後にある人間と人間の歴史を問い続けるのだ。そしてクリスマスを問うのだ。イエスの誕生と人生と死を問うのだ。なぜ、キリストはパレスチナに生まれたもうたのだろう。なぜ、キリストはパレスチナで十字架に架けられたのだろう。なぜ、キリストはパレスチナでよみがえられたのだろう、と。
イエスは、キリストは、いまもその過酷な地に生まれなければならなかった赤ん坊と共に生まれ続けているのだ。イエスは、キリストは、いまも殺害の危険に怯えている人々といっしょに難民キャンプに身を横たえているのだ。イエスは、キリストは、殺されていこうとしているが神が抱きしめようとしている命と共に、いまも死んでおられるのだ。しかし、イエスは十字架の上でつかんだそれらの人々の手を放すことなく、神に自分自身とそれらのいのちを委ねられているのだ。いまも・・・。
神はあの日、そのイエスを墓の中からよみがえらされた。それは、神が愛され、惜しまれ、慈しまれたにもかかわらず、暗黒の力にかき消されてしまったいのちたちが、神がこの世をしめくくられる「終わりの日」に神の前に生きるものとなる徴として、イエスはよみがえらされたのだ。嗚呼、パレスチナよ。イエスの生命の地よ! 吉髙叶

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