2024年10月13日礼拝「分かれ道に響く預言~預言者-たとえば被団協~」

エレミヤ書6 章13-17 節

彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、「平和、平和」と言う。(エレミヤ6:13)

聖書が描き出す「神の民・イスラエル」の歴史の中で、際立った役割を持つ「預言者」。
預言者は、通常(日常)の宗教的営みや指導に関わる「祭司」たちとは異なり、政治的にも組織的にも縛りを受けず、いわば野にあって「神から預かった託宣の言葉」を語る存在です。祭司たちが祭儀とともに人々の教育や生活の整えに深く携わるのに対し、預言者は「真贋(しんがん)を見抜いた警告や批判」をその務めとしていました。しかし、預言者たちの中には指導層や大衆に受けの良い言辞(げんじ)を披露し、転落に向かって迷走する社会のブレーキ役を果たすどころか、逆にアクセルを踏み込ませる存在となっていました。エレミ
ヤ書6 章14 節にあるとおり、祭司も多くの預言者も「破滅を手軽に治療」し、平和がないのに「平和、平和」と唱和するばかりで、「神の民」は安易な現状肯定と、正義とかけ離れた平和(=強い者たちの安寧(あんねい))に慣れ親しみ、間近に迫っている破滅を感知できない「ゆで蛙(がえる)」のような状態となっていきました。
「預言者」と云うべき生き方があります。また「預言」と呼ぶべき性質の言葉があります。「預言」とは、決してイスラエル宗教に特有な概念なのではなく、どの時代・どの人々の中にあっても、「生命世界のほんらいの在り方や義(ただ)しさに照らして、逸脱してはならないこと、尊ばねばならないこと、について、揺らぐことなく響き続ける言葉」なので
あって、そういう言葉こそが「預言」だと思います。また、その言葉を忍耐強く語り続ける者たちを「預言者」と呼ぶべきであると感じます。
日本「被団協(ひだんきょう)」が本年のノーベル平和賞を受賞しました。原爆の被害のおぞましい実相を、その身を晒(さら)して証言に換(か)え、この世界に向けて発し続けた「ヒバクシャ」たちの永年の苦闘の歩みが敬されてのことです。「被団協」の道のりは、現代という歴史における「預言者」的な生き方だと言えます。何より「核廃絶」は「預言」の言葉です。それに対して「核抑止力」という言葉(思想)こそが、まやかしの言葉です。「平和ではないのに『平和、平和』と語る」ごまかし。「核」という「生命と決して共存できないものによって、生命を守り平和を保とう」などと云うごまかしが、人類を「破滅」の淵(ふち)に追い込んでいます。ヒバクシャたちの叫びと希求の言葉とを、預言者たちの声、預言の言葉として真剣に聞かねばならない「淵」に、いま人類は立たされていると思います。吉髙叶

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