2021年8月1日礼拝「踏ん張るところ」

エゼキエル書2 章1-5 節

彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。(エゼキエル書 2:1)

南王国ユダの末路は動揺に満ちた世でした。ユダの王エホヤキムは近隣大国エジプトと、東方にあってアッシリアを押さえ急速に台頭してきた新バビロニア王国の狭間を姑
息に行き渡り、その結果、国内に安定をもたらせるどころか、無原則と無秩序を引き寄せてしまいます。強い者への忖度と暴力への服従を政治的判断のものさしとするような、その場凌ぎで空疎な政治でした。当然、ユダの国内は常に混乱し、政界・宗教界の分裂と対立、社会的不安の蔓延、王エホヤキムの飽食による重税に民衆は疲弊します。律法に基づく社会秩序は崩れ、信仰に支えられた希望は翳み、刹那的・快楽的な風潮と弱肉強食的な生き方が社会にはびこり始めるのです。まもなく、息子のエホヤキンが王に即位したわずか3 ヶ月後、新バビロニア王国は、明確にその牙を剥き、混乱するユダ国に軍事侵攻し、ついにユダ王国は新バビロニアに征服されてしまいます。そして、ユダ王国を構成していた主だった人々、王族・貴族、宗教指導者、役人、職人などがバビロニアに連行され、捕囚状態にされていきます。こうしたユダ王国の没落の顛末を祭司の息子として見つめてきた若き宗教学徒、それがエゼキエルです。彼もまた、バビロン捕囚に連行された人々の一員でした。

異境の地に幽閉された環境の中、エゼキエルは「歴史の省み方」と「自己の生き方」を深く問われる経験をしました。バビロン捕囚から数年、次第に諦念に竿を挿して流れにまかせる生き方、「長いものに捲かれよ」的な生き方が伝染・蔓延する中で、一人の人物(30 歳前後)が、自分の生き方、自分の立ち方を迫られていったのです。

ある日、エゼキエルは「主の声」を聞きます。彼が聞いた声は、たいへん厳しい声でした。この状況に身を任せ、この現実に腰を降ろしてしまうことを赦さない声でした。
座り込んでしまうことを赦さない声だからこそ、それは主なる神の声でした。その声は、不安定で閉塞感が漂う状況の中、人間を萎えさせてしまおうとする力に対して抗い、立
ち向かうようにと呼びかけてきたのでした。
その声は、エゼキエルに「自分の足で立ちなさい」と言います。こうした中でも思考を停止せず、現状に座り込まず、その不安定な場所にあっても「自分の足で立ちなさい」
と。あなたが不安定な中にあっても足をつけ、踏ん張ることができる場所、それは「私の言葉である」と主は励まし、時代の中に一人の「預言者」を立てられるのです。【吉髙叶】

関連記事

PAGE TOP