2021年10月24日礼拝「手放してもいい。従う道は無くならない。」

マタイによる福音書19 章1-26 節

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり金持ちが神の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだ優しい。」(マタイ19:24)

一人の青年がイエス様に近寄ってきて質問をします。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
一生懸命なこの青年の真剣な問いの中には、気の毒ですが、すでに二つの問題があります。間違いというわけではないのですが、「はずれている」という意味での問題が。それは「永遠のいのちを得るには『何をしたら』」という問いの立て方と、「どんな善いことを」という考え方です。
みなさん、たとえば、次のような宿題が与えられたらどうしますか。「今日から一週間。一日一つ善いことをしましょう。それをメモっておいてください。来週、お互い発表しましょう。」きっとみなさんは、何をしていいのかわからなくなるのではないでしょうか。当然です。「善いこと」とは、それがそれとしてそこにあるようなものでは無いからです。
「善いこと」というのを抽象的に表現することはできます。たとえば、「人に親切にする」ことです、と。けれども親切という「善いこと」は、あそこにあったり、自分の力で生み出したり、時間を決めて取り組んだりすることのできないものです。「よし、今日は、親切にする日にしよう」というようなものではないからです。「親切」、それは、出会いの中で生み出される業です。そして、出会いは自分でどうすることもできず、いつ、どこで、というわけにはいかないのです。「親切」とは、突如として出会ったときに、「今、ここで」という業なのですね。たまたまの出会いの中での決断の問題なのです。
ところが、この青年はそれを尋ねます。「善いこと」という何かがある。その善いことを実施することによって、私は「善い人」として存在できるようになる、と。彼にとって「善いこと」も「善い人」も「ここ・あそこ・だれ」という風に固定しています。そして、「永遠のいのち」もそのように動かないものであって、それを得るためには、何か固定した課題をクリアしていくことで自分のものになるのだと考えています。この青年に決定的に欠けているもの、それは、その全てにおいて「他者不在」ということにあります。「全ては、自分だけで完結できる」という世界を生きてしまっているということにあるのです。方向が違いますから、どんなに努力してもたどり着きません。らくがが針の穴を通るよりも、それは難しいのです。【吉髙叶】

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