コリントの信徒への手紙一15 章12-20 節
キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(コリⅠ 15:20)
今年も召天者記念礼拝の日を迎えました。今年から、召された方々全員の遺影を並べて、「つながりの広がり」を感じることができるようにしました。当教会では、教会員として歩まれた方だけでなく、ご遺族の希望に基づいてそのご家族の方も共に記念します。それは、「全ての人の生と死は神の手の中にあったのであり、全ての人の死後のことを、神の御手の中に委ねていくことがゆるされている」という理解によるものです。
本日記念しているこれらの方々は、教会の交わりの時間の長かった方もあれば、短かった方もあります。関わりの厚かった方もあれば、どちらかと言えば薄かった方もあります。しかし、これらの人々に注がれていた神の慈しみと、イエス・キリストによって示された神の想いは何ら変わることはありません。生きられた様子も、亡くなられる時の様子もそれぞれ違いますが、その人生に神の愛のまなざしが注がれていたこと、そして、イエス・キリストの言葉がその人の人生に向けて語られ、イエス・キリストの十字架の業がその人の命のために起こったことに、なんら変わりはありません。
人生の労苦には、当然のことながらひとつとして同じものはなく、その人生が背負った闘いも、味わっておられた苦しみや悲しみも、その人固有のものです。様々です。他人が知ることができた事実もあれば、知る由も無かった事も多くあるでしょう。ただ、そうした固有で様々な人生の道のりの中に、イエス・キリストの十字架が「その人のために」立ち、「神の国はこの人のものだ。この人が失われてはならない」と「その人に向けて」祈り、神の国と結んでくださっていたこと。そのことこそが、異なる人生を歩みながら、わたしたちに与えられた「共なるひとつの事」なのではないでしょうか。
聖書は、わたしたちに無条件で神の救いを宣言してくださったイエスが、それゆえに十字架にかけられたことを証しています。さらに、そのイエスが神によってよみがえらされたことを証言するのです。そして、やがてわたしたちも、「終わりの日」にこの復活にあずかる者とさせられるのだ、とも。これらのことはすべて神の御心、神の業であって、わたしたちはこれらの「宣言と約束」を信じたり、受けとめたりしていくしかありません。召天者記念礼拝。今日は、故人や先達たちを心に留めながら、同時に神のくださる「結びの約束」にも、ご一緒に心を向けていく時だと言えます。吉髙叶