サムエル記上24 章1-16 節
わたしは(あなたの)上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。わたしの手には悪事も反逆もありません。(サム24:12)
『サムエル記上』21 ~ 23 章には、王サウルが執拗にダビデを追い続ける様子が描かれています。ダビデは逃げ続けます。ノブへ逃げ、ガトへ移り、アドラムへ逃げ、ミツパに行き、ハレトに移り、ケイラに行き、ホレシャに隠れ、マオンの荒野に逃げ、エン・ゲディへと移ります。そのダビデをいちいちサウルを追い続けるのです。24 章は、エン・ゲディのダビデに向かってサウルが三千人の兵を挙げて向かっていく場面です。サウルは、なぜそこまでしてダビデを追わねばならなかったのでしょう。「自分の王位を脅かす存在を排除したかった」との説明では不十分な、それ以上の何かを感じざるを得ません。
サウルは、ダビデを追い続けるうちに、自分の人生そのものが「ダビデを敵とし、ダビデを倒すこと」になってしまったのです。ダビデという「敵」の存在によって、自分自身の存在意味を確認しなければならなくなっていったのです。これは、恐ろしいことであり、同時にとても悲しいことです。
ナチスの迫害から逃れてアメリカへ亡命し、全体主義の恐怖と人間の心理を考え続けたハンナ・アーレントは、「人間がもし孤立(孤絶)するならば、判断する力は失われてしまう。判断は、他者との潜在的な合意にかかっているから」だと語ります(『過去と未来の間』)。彼女の議論を思い起こすとき、私にはサウルの姿が重なって見えてきます。人が他者との関係を失い、自分自身の中に閉じ込められてしまうと、物事を別の角度から見ることが難しくなります。「自分は正しい」「自分は脅かされている」「相手は敵だ」そう思い始めると、もはや自分自身との対話も失ってしまい、判断は固まってしまうのです。相手は、もはや一人の人間ではなく、「敵」になります。「敵」という一つの記号になっていくのです。さらに、この「敵によって脅かされる自分」という自己理解に悩まされ、敵を憎みながら、その敵に内心・内面を支配され、疲れ果てていく・・・。とても皮肉なことですが、これが対立と紛争・戦争の中でつくられてしまう人間の姿です。
ダビデはサウルに対面し、「わたしはあなたを殺さない」と告げます。これは「わたしはあなたを敵にはしないし、またあなたの敵となって生きることも望まない」という宣
言でした。この言葉の前にサウルは打ちのめされ、泣き崩れます。その時、サウルは「敵をつくって生きる人生」の苦しさから、ようやく解放されたのだと思います。吉髙叶