2021年8月29日礼拝「翻って生きる」

エゼキエル書 18章14-20、30-32、33章10-17

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:32)

「いつでもあなたは翻って生きることができます。周りがどうであれ、これまでがどうであれ、あなたはアブラハム(救いの約束)の子なのですから。あなたが失われないことが神の願い。あなたが取り戻されるなら天では宴会が始まるほどです。あなたという一人の人は、それほどに大切な神のすべてなのです。」

本日はエゼキエル書18 章と33 章をドッキングさせて読んでいきます。双方の預言の時期は異なります。18 章はバビロニア捕囚から6 年程が経過した時の預言、33 章は12年程経った時の預言です。しかし、預言の主旨はただ一つのこと、「神に立ち帰って、生きなさい」、これです。エゼキエルに前後して、他にもたくさんの預言者たちの言葉が聖書に遺されています。それらの預言の中心メッセージは、とどのつまり「立ち帰れ、そして生きよ」に尽きると言っても過言ではありません。もちろんイスラエルの民に対する神の怒りや厳しい断罪の言葉は、預言にはつき物です。神への背信と反逆を繰り返し、力を頼み、富に物言わせて民を支配するイスラエル指導者たち。そのため民は奪われ、弱められ、共同体は混沌としていきます。アブラハムとの約束に固執している神ですから、その約束が侮られ反故にされようとする場面で、神は猛然と怒り、その背信を追求しようとします。それゆえ預言は厳しい断罪で始まらざるを得ないのです。しかし、神はなかなか見切らないのです。付きまとうのです。預言者を遣わして言葉を送り、呼びかけ続けるのです。断罪が目的ではなく、呼びかけがほんとうの目的です。「悔い改めよ」「立ち帰れ」「生きよ」「お前たちの死を喜ばない」と語りかけ続けていきます。
いいかげんにあきれて、縁を切って滅ぼせばいいのに。こんな民は、放り捨てて歴史から拭い去ればいいのに。怒りながら寄り添い続けるのって、疲れるでしょ、神さま。
でも、旧約預言書の厳しい言葉群の裏に、このいじましいほどイスラエルにつきまとう神の愛を感じることができれば、旧約聖書の読み方が変わります。そして主イエスの存在の位置と意味がわかります。旧約聖書にかなり精通しながらも、もはや律法の厳しさや預言者の激しさの部分にではなく、失われようとしている者を探し、受け入れようとしている神の憐れみに焦点を当てて語り抜き、それを神の真意として他者に向き合い続けた主イエスの信仰が読めてくるでしょう。旧約預言書の厳しさと主イエスの憐れみ深さの、一見断絶しているようで深くつながっているラインが見えてくるでしょう。「いつでもあなたは翻って生きることができます。周りがどうであれ、これまでがどうであれ、あなたはアブラハム(救いの約束)の子なのですから。あなたが失われないことが神の願い。あなたが取り戻されるなら天では宴会が始まるほどです。あなたという一人の人は、それほどに大切な神のすべてなのです。」預言書も主イエスもそれなのです。【吉髙叶】

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