「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(口語訳28:20)
マタイ福音書のラストシーンは、主イエスのこの言葉で閉じられます。復活された主イエスが約束の地・ガリラヤの山で弟子たちと再会し、弟子たちを勇気づけ、弟子たちにこれからの生き方を改めて伝え、世に送りだしていく、そのような時に、彼らにかけられた言葉がこの言葉なのです。そして、この言葉を、今日の私たちもまた、復活の主から聴かされているのだ、と、そう信じていきたいのです。復活のイエスは、私たちにはっきりと語り、また約束してくださっています。
「見よ、わたしはいつも、この世が神によって締めくくられるその時まで、日々そして日々、どのような時にも、あなたがたと共にいるのである」(私訳)と。
「いつも、日々そして日々」。 そうです。イエス・キリストは、もう、このような時にはいない、このような場面にはいないという方ではなく、いつも私たちと共にいてくださる方であられるのです。私たちのこのような時には主はいらっしゃるが、このような時にはいらっしゃらない、このような場所にはいらっしゃり、このような場面にはおられないということは、もはやないのです。
主イエスが復活されたということは、主が限りなくわたしと共にいる方となられたということであり、ひっくり返せば、「この私が主イエスがいつも一緒にいてくれている私になった」ということです。復活とは、「イエスが新たしく変わった」ということ以上に、「この私が変わった、私の姿(私の状態)が新しくなった」ということなのではないでしょうかる。「イエスは超人的な方だった」というイエスの問題なのではなく、この私が「主イエスが限りなく常に共にいるような私とさせられた」ということです。まさに、イエスのよみがえりが、新たに変えられていく私の出発点なのだということです。イエスがいつも共にいる私とされているという、そのところから、私の感じ方は変えられ、思い巡らし方は変えられ、手足の運びが変えられ、歩き方が変えられていくのかもしれません。きっと、わたしの人生の方向性が変えられていくのです。
また、主イエスは弟子たちに「見よ」とおっしゃいます。
本日は、あえて口語訳聖書を用いさせていただきました。聖書のギリシャ語原文にはっきり書かれている「見よ」、新共同訳聖書では省略していますが、この「見よ」こそが大切だと感じたからです。イエスは弟子たちに、そして聖書を読む私たちに、こう仰っているのです。「見よ。世の終わりまで、いつもあなたがたと一緒にいる私を見よ」と。それはひっくり返せば、私たちが、どこにいても、「そこにイエスを見ることのできる者に変えられていく」ということです。あの方の姿を見ようとするなら、見ることができる者とされたということなのです。実際に見ているものは悲劇に満ちたものであったとしても、たとえそうであっても、「そこに、生きて働く私を見よ、そこに共にいる私を見よ、復活の私を見よ」とイエスは私たちを招いてくれます。
たしかに、私たちが自分の人生の中で見せられる事実は苦しみに満ちています。救い主が実際に横に立っていて、あらゆる問題を払いのけて下さっている、という現実ではありません。私たちが見る聞くもの、その現実は、決して幸福に満ちたものではなく、人間の欲望と暴力が生み出す陰鬱な様相、弱い者が顧みられない薄情な現実ばかりです。目に見えているものは、むしろそのような事柄の方が多いのです。
私たちは救い主を見たい、と切に願います。そもそも、私たちが「救い主を見たい」と心が動くときは、苦しんでいる時ではないでしょうか。疲れているときではないでしょうか。見えているものに苛まれているからこそ「救い主が見たい」と。どうにもならない事態が目に映っている、限界だらけの自分が見えてしまっているから。理解者がいない孤独な状態、問題ばかりが見えて、解決策が見えないという現実を見ているわけです。
あるいは、「救い主を見たい」と心が動くときは、憂えている時ではないでしょうか。目を覆いたくなり、耳をふさぎたくなるような事件を見、そのような時代を見てしまっている時ではないでしょうか。悲劇的な人間の姿を目にしてしまう時ではないでしょうか。私たちは憂うべきことがらを見、聞かされてしまっているからこそ救い主を求めるのです。 しかし、そのような時、そのような中にも、主イエスは「見よ」とおっしゃってくださるのです。
「救いを見よ、真実を見よ、いのちを見よ、神の愛を見よ、罪の赦しを見よ、神の勝利を見よ。何が、朽ちていくもので、何が神の前に取り扱われ、何が神の前で祝福されるか、何がいつまでも存続するものか、救い主イエスによって今、見よ」と私たちは呼びかけられています。
イエス・キリストがいつも共にいる人間となること、苦しみの中で神の憐れみを見続ける人間になること、悲劇のるつぼの中で神の前に取り扱われるものを見つめる人間になること。人間が、苦しみの中にあって、このように新しく創られていくこと。これこそが復活の出来事です。復活の出来事とは、イエスがよみがえらされることによって、私たちがそのような人間として新しく創造されるということではないでしょうか。
そして今日、わたしたち人間世界は、復活の光につくり変えられて生きる人間が、多く生み出されることを必要としている世界なのではないでしょうか。
苦しみの中で見えているものは、見ている人間に壁のように映るでしょう。その壁を聖書の事件に照らし合わせるならば「墓石」といってもいいのかもしれません。その壁は、重く大きいのです。見えていることが悲しすぎるとき、別のものが見えなくなります。墓石という大きな壁は、人間の心の中に「絶望の壁」を造り上げようとします。心の壁が重いので、人は、見たくないはずの悲しみの現実に目が釘付けられたようになってしまい、その悲しみの淵から湧き出してしまう虚無感や怒りや憎しみといったものを「新しい現実」にしてしまうのではないでしょうか。
今、私たちが心配し、どうしたらよいのかと苦しんでいるミャンマーの惨劇。600人以上の死者、数千人の負傷者を出すという暴虐の嵐。インターネットを通して送られる来て目にしてしまう残酷な現実は、まさに人間世界の暴力支配が生み出している十字架と墓穴の現実です。国軍が世界に見せつけようとしている陰謀と画策は、多くの人々の目を眩ませ、墓石の重さは日を追って重くなるばかりのようです。
しかし、私たちは、このような時だからこそ、主イエス・キリストの「見よ」との言葉を聞かねばなりません。
「わたしのよみがえりを見よ。あなたがたの苦しみを共にした私の死を見よ。しかし、その墓の中から神がよみがえらせた私を見よ。あなたがたへ伴い続ける神の愛の確かさを見よ。あなたがたを神の子として祝福している神のみこころを見よ。わたしは、もはや、あなたがたと共にいる。あなたがたも出ていって共に見よ。世界の人々と共に見よ。貧しい人々と共に見よ。悲しんでいる人々と共に見よ。わたしがいつもそのようにしたように、盲人の暗闇の中で見よ。聞こえない人々の沈黙の中で見よ。息子を亡くした母親の横で見よ。生まれつき寝たきりの男の床の傍らで見よ。悪霊にとりつかれた人間に向かい合って見よ。死んでしまった少女の手を取って見よ。嫌われ者の家に入って見よ。わたしの愛を見よ。わたしの伴いと、わたしの救いを見よ。
あなたがたは、ゲッセマネで見よ。あなたがたはヘロデの宮殿で見よ。あなたがたはピラトの官邸で見よ。そしてゴルゴタの丘の暗闇の中で見よ。そこに、人間の暴力を浴びながら人間を愛し、その残酷と不遜の罪の赦しと癒やしのために祈り続けた私を見よ。そして、今、生きているわたしを見よ、欲望は勝利できなかったことを見よ。暴力は勝利できなかったことを見よ。死はいのちに呑み込まれてしまったことを見よ。どんなに悲惨で解決の糸口がないような現実であっても、その墓石がどんなに重いものであっても、見よ。墓石が転がされるという真実を見よ。これこそを見よ。そして、あなた自身を新しく見よ。ガリラヤに帰って自分自身を見よ。わたしがいつも共にいる人となった自分を見よ。ガリラヤが変わった、あなたの足場が変わり始めた、その事実を見よ。そして世を見よ。世界を見よ。そこには絶望の闇は必ずはらわれる神の御心が注がれている。そのような世界を見よ。そこでわたしの約束の道に生きよ。」
復活の主に出会うガリラヤの山の頂で、弟子たちはそう呼びかけられ、私たちもまた、そう招かれているのだと思います。
私たちは、「復活の主を見よう」としながら生きていくものとなりたいです。死にゆく人々の悲しみをしっかりと見つめながら、もう一つの約束を見ようとしたいのです。滅び去るものに目を奪われ、悲しい壁を心につくってはならないのです。悲劇に目を奪われて、怒りの壁を心につくってはならないのです。
このことを信じて生きましょう。「いつもどこにでも共にいるという主イエス」は、ただし「墓の中だけにはおられない」のです。マリアが見たように聞かされたように「もうここにはおられない」(6節)。のです。そうです、ですから、私たちもまた、決して「墓の中」を生きることができない者とされたのです。空しい場所を彷徨うことができない者とされたのです。欲望と暴力の行き着く先に私たちは行くことができないのです。
私たちは、墓穴にだけは、もはや行くことがないのです。私たちが、主イエスを見るとき、そこは、どんなに辛い場所であったとしても墓ではないのです。そこは、出発することのできるガリラヤなのです。わたしが発見されたガリラヤ、主のみ言葉を聞かされ始める人生が始まったガリラヤなのです。
ご一緒に、ガリラヤの山に登ろうではありませんか。そして、主イエスに会って拝そうではありませんか。私たちは、混迷する世界の中で、人間を不安にさせるこの世界の中で、主イエスを拝そうではありませんか。そして、主イエス以外の方を恐れない者となり、そして、主のみ言葉以外の権威に動かされない者となり(そう富の力という権威、暴力の力という権威、死が持っていると考えられている虚無的な権威、そのようなものが本当の権威なのではなく)、神の愛という権威、十字架の主を神はよみがえらせたという権威、死はいのちにのみ込まれていくという希望の権威、それを真の権威として、世に出ていこうではありませんか。そこから世を見つめるものとなろうではありませんか。
「イエスの弟子として生きる」とは、正しく強く動かされない人になるということではなく、ただどのような中にも「インマヌエルを見る人になる」ということです。そして、人々を主イエスの弟子として招いていくということは、この暗闇の世界にあって、インマヌエルを響かせ合う人々の地平を、「希望の地平」を広げていくということだと信じてまいりましょう。
祈り 十字架と復活の主よ
共にいる主と、共に生きるわたしとなさしめてください。
見るべき本当のものを見る、いのちの目をもった新しいわたしたちにしてください。
復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。