テトスへの手紙3 章1-11 節
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。(テトス3:5)
今まで自分は、なぜ生きて来られたのだろう? 自分が正しかったからだろうか? 強かったからだろうか? それなりにがんばったからだろうか?・・・静かに自分の内側を見つめるとき、私たちは気づかされます。自分の力だけで立ち続けることはできなかった、と。自分の正しさや強さなども、少し数えられても、すぐにそれを打ち消す何倍もの曖昧さや弱さに思い至るのです。そんな私の心に、聖書の言葉はひとすじの風を送ってくれます。「神の慈しみと憐れみが、あなたを支えているのだよ」と。
「テトスへの手紙」は「かつての私たち」の姿を、どうにも情けない姿-無理解で、頑(かたく)なで、欲望に弱く、常に迷っている姿-だったと告白しています。でも、それは「かつての姿」というより、いまも私たちが抱えている偽らざる本性のことだと思います。今なお、どこへ向かえば良いのか分からず、何に従えば良いのかも分からず、ときに人を傷つけ、ときに自分自身を見失いながら歩んでしまうのです。けれども、そのような私たちに対して、神は目を逸らされません。私たちを裁こうとせず、切り捨ててしまわれずに、神はまず、私たちを憐れんでくださっています。私たちは、この憐れみによって、いまここに生かされています。神の憐れみが、私たちの命の根にあるのです。
しかし、神の働きは、そこで終わりません。神は、ただ私たちを赦し、受け入れてくださるだけでなく、新しくしようとしてくださいます。私たちを新しい道へと送り出そうと働きかける風は、いつも吹いています。その風が吹き込むとき、頑(かたく)なだった心がほどかれ、閉ざされていた内側に風が通るような気がします。それが恵みです。恵みとは、何事かを成し遂げたゆえに与えられる報酬ではありません。何も差し出せない私たちに、迷い続けている私たちに吹き続け、私たちを歩ませようとしてくださる神の働きかけのことです。そしてこの恵みは、私たちをその場にとどめず、道を進ませてくださるのです。「共に生きるように、自分に失望しないように。生きることに絶望しないように。争いに身を投じず、寛容と柔和を学ぶ歩みとなるように」と。もちろん、私たちは、また立ち止まり、また迷い、ときに後戻りすることでしょう。それでもなお、覚えていたいのです。私たちの人生を支えているのは、自分の強さではなく神の憐れみであり、私たちの人生の歩みには神の恵みが伴っているということを。吉髙叶