2021年5月2日礼拝「なんでやねん」

使徒言行録9章1節-19節a


 本日の聖書テキストは、最も初代の教会史にあって、キリスト信仰を「ユダヤ」とか「ユダヤ人」という枠組みを越えて「すべての国の人々」に伝搬させていった立役者・パウロという「伝道者誕生」のエピソードです。
 キリスト教、すなわちイエスの名による神の国の信仰の運動は、最初はユダヤ教の内部から生じ、出発をしました。ユダヤ生まれのユダヤ人(ヘブライスト)たちの共同体だったのです。そこに、外国生まれのユダヤ人たち(ヘレニスト)がどんどん引き込まれていくようになります。いずれにしてもユダヤ教をベースにした人々たちの群れでした。そこに、パウロという使徒が加わることによって、ユダヤ教をベースとしない、あるいは割礼をうけてはいないまったくの異邦人たち(外国生まれの外国人たち)にイエス・キリストが伝えられ、信じられるようになっていったわけです。つまり一つの信仰体系の前提が変わり、対象が変わり、目的が変わり、信仰生活の方向性も手順や文化もすべてがすっかり変わってしまうわけです。しかし、だからこそ、やがては「キリスト教」と呼ばれるある種の普遍性を持つ信仰となってすべての人に開かれていくことになったわけなのですが、そのような変貌を遂げていったのは、このサウロという人物が存在したからでありますし、さらには、このサウロが伝道者になることができたのは、アナニヤアという人がいたからだといえます。
 しかし、それほどのキーパーソンたちの「あの時、歴史が動いた」という出会いのエピソードであるにもかかわらず、この聖書箇所には、このふたりがどんなに選ばれるに適格な人物であったかという記述はありませんで、むしろ、この二人は、人間的にいうならば、むしろ不適格であり、あるいは自らはまったく見通せていない「うろたえるばかりの」登場人物でしかないことがわかります。つまり、「なんでやねん」という謎に包まれています。ただ、聖書が証しようとしていることは、このふたりを打ちのめしながら結び合わせていくほんとうの主人公は聖霊であって、人間には「なんでやねん」としか思えない人物であっても、「主がお入り用なのです」という、この一点で事が進められていくのだということです。聖霊とはなんと自由であり、なんとも不思議な人事(人のお用い)をなさるものです。
 パウロというのはギリシャ語読みで、ヘブライ語読みではサウロです。この男サウロは、もともとは残酷極まりないクリスチャン迫害者でした。この日も、ユダヤから100Km程も離れたダマスコに形成されていたクリスチャンコミュニティーを一網打尽にするために、ユダヤ教当局の「弾圧許可証」をたずさえ、息を弾ませて北上していました。
 しかし、まさにその道中、突然目も眩む閃光に包まれ、彼は打ち倒されてしまいます。さらにその光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という問いかけが響いたのでした。ただならぬ力に押さえ込まれながらも、サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と声をあげます。すると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と光が答えたのでした。
 この出来事を、サウロはその伝道者としての人生の中で、繰り返し自らの「回心」の出来事と証言し続けました。あの問いかけは光であったし、光は自分への問いかけであったと。いったい何がサウロに引き起こされたというのでしょうか。
 脱線のように思われるかもしれませんが、少し考えてみましょう。
「太郎くん、太郎くん。なぜ花子さんを、そんなにいじめるのですか。」この太郎くんへの問いは、「花子さんがいじめられる理由」を尋ねているのではありませんね。そうではなく、花子さんをいじめてしまう太郎くんの側に、太郎くんの心の中に、いったいどんなストレスがあり、なぜそんなに荒れているのですか? と問いかけているわけです。まぎれもなく「いじめの問題」は、いじめられる側の問題は何なのか、ではなく、いじめている側の人間がどんな歪みを抱えていて、どうにかして癒やされ解放されなければならない問題なのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。「サウル、なんでやねん・・・」
 サウルは、この言葉を通して、自分の内面の中に蠢く深い闇を覗き込んでしまったのだと思います。その闇とは何だったのでしょうか。
 異邦の地(現在のトルコの中南部にある街)タルソス)生まれのユダヤ人。その少年が、がんばって勉強して、ユダヤ教ファリサイ派トップのガマリエル門下に入門しました。彼は常に、生粋のユダヤ人以上のユダヤ人になろうと野心を抱いていました。サウロは別の箇所で告白していますが、言語及び足に障害を持っていたとも言われています。そうしたことも彼の深いコンプレックスとなり、彼の内面、人間性の形成に影響を与えていたことと思われます。埋まることのない自己承認欲。羞恥心と自尊心、コンプレックスとプライド。自尊心を羞恥心が引っ張り、どこかで常に臆病であり、しかし羞恥心が常に自分を尊大にさせてしまうという、複雑な心理の作用が彼の中で蠢いていたと思われます。そうしたいくつかの成分がひねくれて絡み合う心理は、悲しいことに往々にして「憎しみと暴力」に流れ込んでいくことになります。つまり、サウロの場合クリスチャンへの憎しみと殺意です。ユダヤ人でありながらイエスこそメシアだと信じたりするやつらへの憎しみ。「あの輩たちを撲滅することこそ正義である」という宗教的な正義や大義に自分を同化し、自己膨張していく。(臆病な自尊心と尊大な羞恥心が負のスパイラルにはまり込み自己陶酔しながら凶暴化してしまう、という、後のアドルフ・ヒトラーや東条英機、ポルポトや金正恩やアウン・フラインなどがはまりこんでいく心理スパイラルですけれども)、そうした苦悩が、あの時、ゆがんだサウロ、凶暴なサウロをつくりあげていきました。
 サウロの魂は荒んでいたに違いありません。彼の内面ではいつも何かがせめぎあっていたと思います。自分にはこれがほんとうの喜びなのか。神を信じ、神の義を守る、そんな強い志で生きていたつもりだが、ただただ、キリスト者たちを見つけ出し、逮捕し、は殺害していく。これが、ほんとうに、神の望まれることなのか。「なんでやろ・・・」「なんでやねん、なんでやろ」
 強い光に引き倒され、サウロは今、自分の魂の深いところに問いかけを押し込まれています。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。なんでやねん・・・」この問いかけ一つがこの時サウロを捕らえたのです。この「サウル、なんでやねん」が。サウルは「なんでやろ、なんでやねん」と、自分の暗闇の中にしばし鎮座したのでした。

 ちょうどその頃、ダマスコのクリスチャン、アナニヤに、まさかの知らせが届いていました。「今から『直線通り』の一軒の家を訪ねよ。サウロという人物がいる。彼はおまえが迎えに来てくれるのを祈りながら待っているから」。
「なんでやねん!」 アナニヤが「サウロ」という名を聞いて仰天したのは無理もありません。迫害者サウロが、あちこちでクリスチャンたちを片っ端から逮捕しているという知らせもとうに知っていたと思います。サウロという名前は、恐怖を伴わずに口にすることのできない名前でした。それなのに、聖霊が突然アナニアに命じたことは、「そのサウロを迎えに、おまえが行って欲しい」ということでした。アナニヤは、耳を疑い、そして全身をふるわせながら主に聞き返しました。「なんでやねん・・・・」
 しかし、主はアナニヤに「さあ、行きなさい。彼は、これからの伝道のためにわたしが選んだ器なのだ」と言うのみでした。
 そこに決して納得は生まれませんでした。たったそれだけの言葉でアナニヤの心の中の疑い、不信、ざわめきが静まるはずは無かったのです。心の中で何度も、「そんなはずはない」と打ち消し、「あんまりのことだ、主はいったい何を考えているのか」とつぶやいたにちがいありません。「なんでやねん! な・ん・で、サウロやねん」
 苦しみと恐怖の時間が押し寄せてきます。しかし、17節の決断が立つのです。「そこでアナニヤは、出かけていって」の「そこで」にあった決断。16節と17節のあいだには、おそらく凄まじい葛藤があったことでしょう。その狭間に、何があったのでしょう。
 繰り返しますが、ここでアナニヤを立たせたのは彼自身が得た納得ではなかったと思います。彼が立ち上がり、出かけることができたのは、「主ご自身がお入り用とされる」とおっしゃる、その「主のお入り用の知らせ」の前で、自分の為すべきことは、自分の「なんでやねん」を抱えたままであっても「主イエスの御名によって行きます」という、そのことでした。
 方やでは、人間を打ち倒し、深い自問の中に鎮座させる主の問いかけがあり、方やでは人間を断念させ、ただ主イエスの御名のために立ち上がらせる招きがあります。サウロへのこの問いかけと、アナニアへのこの招きの力が、人間の想いの延長では起こりえなかった出会いを起こし、初代教会が世界へとその足を進めていく転換となりました。まさしく「歴史が動いた」瞬間だといえます。。
 聖霊が、伝道・宣教のために必要とした器は、思いがけない器でしたし、聖霊が人間に求めた出会いはあり得ない出会いでした。しかし、それが、まさに、人間を真に問いかけつつ、人間を作りかえつつ、人間を出会わせつつ、歴史を変えていく力でもあります。神は、キリストは、聖霊は、ほんとうに自由なのです。聖霊は、誰をも造りかえることができ、誰をも用いることができるというのです。
よみがえりのイエスの「なんでやねん」
 深い自問自答のサウロの「なんでやろ」
 アナニヤの「なんでやねん!」「なんでやねん」
 そして、聖書を読みながら今を生きる私たちが、歩みながら抱く「なんでやねん」
 そう、聖書と私たちの「なんでやねん」、聖霊と私たちの「なんでやねん」の対話は、これからも続くのです。

関連記事

PAGE TOP