2026年10月11日礼拝「いのちを喜び合う知恵」

箴言8 章1-3,22-36 節

わたし(知恵)は、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し人の子らと共に楽しむ。(箴言8:31)

『創世記』1 章は、天地創造の物語を語ります。神は「言」によって光と闇を分け、海と陸を分け、世界に秩序を与えていきます。それは、「混沌から秩序へ」と形づくられていく世界です。この創造物語は、どのような時代に授けられた世界観でしょうか。『創世記』1 章(P 資料)の背後には、バビロン捕囚とその前後の経験があります。ユダの人々は王を失い、エルサレムの神殿を失い、国を失いました。自分たちの世界を支えていたものが崩れ去る経験をしたのです。しかも、目の前にはバビロニアという巨大な帝国がありました。圧倒的な軍事力で国々を征服し、人々を移住させることのできる帝国です。力のある者が歴史を動かし、勝者が世界の意味を決める。そのように見える現実がありました。そのような時代の中に『創世記』1 章の描写を重ねる時、そこには深い意味が含まれています。世界は、帝国の王が造ったのではないし、軍事力によって存在しているのではない。世界は、支配者の思うままにしてよいものでもない。世界は神のものであり、神が真の主であるのだ、と。これは、自らの崩壊の歴史を踏まえつつ、更に世界を支配する者たちに向けられた根本的かつ総括的な批判でもあったのです。どれほど強大な帝国であっても、世界の主人ではない。王であっても、創造者ではない。人間は、世界を自由に破壊してよい存在ではないのです。
箴言8 章に語られる「知恵」もまた、世界の始まりに自らが立ち会っていたと語ります。「わたし(知恵)」は、神が世界を造られるとき、その傍らにいて、世界が形づくられていくことを喜び、また楽しんでいたのだ」と。印象深いのは、知恵が世界の秩序を知っているだけではなく、喜び楽しんでいるということです。世界は、人間が管理し、効率よく利用するような対象物ではない。神の造られた世界そのものには喜びがあるのです。31 節は、「知恵」が人間の世界を喜び、人の子らを楽しみとしていたことを語ります。「知恵」は、人間が生きる世界を喜びながら、人間に向かって語りかけているのです。世界の秩序とは、強い者が弱い者を押さえつけるための秩序でも、人間が互いの命を損なうための秩序でもないのです。それはむしろ「混沌」(無秩序)です。創造の「知恵」に耳を傾けることは、世界を、そしてそこに生きる人間を、支配の対象としてではなく、神が喜ばれた命として受け止め、かつ、共に喜び合うことではないでしょうか。吉髙叶

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