テモテへの手紙二2 章8-10 節/3 章10-17 節
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ3:16)
ポレポレ東中野で上映中の「聴く隣人のいるところ」を観てきました。島根県江津市にある全寮制高校「キリスト教愛真高校」の生徒たちの日常を映し出した映画です。キリスト教愛真高校は全校生徒45 人。共につくり、共に食べ、ともに話し、共に歌い、共に眠る、日本で一番小さな高校です。人間関係のトラブルも、文化祭の企画も、クラス旅行の行き先も、校則も寮生活のルールも、とにかくあらゆることを、自分たちで話し合い、語り合って決めていきます。テレビやスマホからも、また電化製品からも離れて、自分と仲間に徹底的に向き合う。濃密ともねめんどくさいとも言える学校です。愛真高校の特徴の一つに毎日の「朝礼拝と夕会」があります。先生たち、生徒たちが順番に「感話」を語るのですが、映画の中で、ある朝礼拝の場面が撮(うつ)されていました。
語っているのは一人の生徒です。「『義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』ぼくはこの聖書の言葉がきらいです。神のために苦しむなんておかしい。聖書の神は、救いのためと言って人に何かを命じ、従わなければ裁いたり滅ぼしたりする。ぼくは、そういう神が理解できない。聖書がわかりません・・・」。講堂の生徒たち、先生たちの間に沈黙が残されます。「よく言ったなぁ、よく言葉にしたなぁ」と感じました。「そう感じて当然だよ、きっとみんなもそう感じていて、わからないでいたんだよ。おかしいと感じること、これはひどいと思うこと、聖書にはいっぱいあるもん。みんなで話し合いながら、生きるってどういうことかを、考えていってください。」スクリーンに向かって、そう語りかけている自分がいました。
この巻頭言の冒頭に記した聖書テキストは、いわゆる「聖書無謬説」の根拠とされてきた言葉です。「聖書はその一言一句、字義どおり、神の言葉であり、決して矛盾や誤りは無い。そのまま受け入れるべきである」という考えの基になっています。そしてその教えのもとで、信徒たちの世界観や倫理観を形成しようとする教会も多くあります。そうした教会では、人々に「思考停止」や「問答停止」を強いたり、「聖書的思考」へと誘導していく傾向があります。でも、わたしは、教会もまた、愛真高校の朝礼拝のように、「わからない呻き」から始めていって良いと思います。聖書に「答え」を求めるのでなく、聖書から「問い」を聞いていく歩みでありたいと思います。吉髙叶